2011年10月7日金曜日

失業した理由シリーズ003 ヘリカルスキャンはおもしろかった

趣味はアニメを観るのと電気回路設計、そしてビデオデッキを「神の機械」とあがめるわたしにとって、ビデオデッキの設計をしたいと思うのは自然な成り行きであった.

大学ではちっとも勉強せず麻雀ばかり打っていて成績の悪いわたしのような学生には、今日の経済情勢では就職先なんかあるわけがないが、1987年当時の電気工学卒は金の卵扱いであって、二流か三流企業ぐらいなら就職できた甘い世の中だった.実家が伊勢原なので、近所がよいと思い、伊勢原の工業団地のなかにあるソニーマグネスケールという会社に就職した.

社名が示すとおりソニーの子会社で、工作機械に外付けして精密な測長をする装置が主力商品の社員数500名ぐらいの会社だった.たまたま、業務用ビデオ機器の開発製造もやっていたのでそこに潜り込みたいと思ったのである.つまらなかったら転職すればいいさと思っていたので、会社の規模にはこだわらなかった.

当時の業務用ビデオ市場の状況はというと、
ソニーが高収益を謳歌していた商品の一つに、放送局用ビデオ機器があった.1インチ幅テープの巨大なオープンリールがブン回って極めて高画質のビデオを録再するBVHシリーズ.βmaxのカセットだがβmaxよりはるかに高画質なビデオカメラであるベタカムシリーズなどが有名どころだった.
そういった放送局向けの超高価なビデオ機器とは別に、松下やJVCの業務用VHSビデオデッキの需要がたくさんあった.あのころは映画ビデオもアダルトビデオも出せば売れる時代だったので、右肩上がりのセルビデオ需要を満たすために何百台ものビデオデッキを並べてダビングする業者が世界中にあったのである.業務用VHSビデオデッキとはそんなダビング業者向けの機械であった.

ビデオダビング市場向けに、ソニーマグネスケールで製造販売していたのは、磁界転写方式という特殊な技術をつかって、たった1台で業務用VHSビデオデッキ200台分ぐらいの高速ダビングをする機械だった.だが、研究所のアウトプットをそのまま商品として販売するという無茶なことをやったために、トラブルが多く、期待ほどは売れてなかった.そもそも研究所のアウトプットごときを売ってはいけないのである.研究所は市場が求める性能を実現するために仕事をする機関ではないので、業務用機器として長期間運用するために必要なサービス性に着眼した設計なんかしない.レースカーを市販できないのと同じ理屈だ.事業部が市場にマッチした製品に作り替えてから販売しなければならない.  (この時の研究所の人とは今でもつきあいがある)

そういうところへ私が入社し、画質改善とかクレーム対応とかサービスとかいろいろとやった.最初の3年間はいろいろと勉強できて、わりと満足な生活だった.

ビデオ技術とは、電気+精密メカ+サーボ+ソフトウエア=メカトロ技術の集大成であって、しかも絵も音も出る.こんなにおもしろい教材は他に考えられなかった.また、幸運な時代だったのは、この当時の技術水準が新人の教材として最適だったのである.担当していた商品は、BVH-2000という業務用1インチビデオを改造した機械で、CPUは8085という8bitマイコンでシーケンサ程度の働きだけだった.今日ではソフトウエアサーボになっているサーボは全て回路で実装されていたし、ビデオ回路も音声回路もIC化されてなくディスクリートパーツで作られていた.なので、回路とソフトは隅々までしゃぶり尽くすようにして理解できた.私はラッキーだったと思う.

これが現在の技術だとすべてがsystem LSI化されてしまうので、LSI設計者にしかアーキテクチャの妙味は理解できなくなっている.しかしLSI設計者になるには膨大な知識が必要とされる.新人が俯瞰的知識を習得しにくい時代となってしまった.

やがて、4年目~5年目あたりになると、あまりにもサービス業務や製造技術業務が多くて、開発業務が少なくて、いい加減嫌気がさして来た.ここで、最前線で鉄砲撃つ気はないぞ、後方でミサイル開発する気しかないぞ、という元来のタカビーポリシーがズンズンと頭をもたげてきたのである.

--続く--    つぎへ         前へ

人気ブログランキングへ

1 件のコメント:

  1. 読みに来ました。
    面白いです。というか、熱かった時代を思い出してちょっと甘酸っぱい感じ。
    続きが楽しみ。

    返信削除