2014年10月25日土曜日

SF小説「タウ・ゼロ」はつまらなかった

薦められて、SF小説の「タウ・ゼロ」を読みました.USAで1971年リリースのSF小説です.つまらなかった.   http://goo.gl/QRKrtQ

あらすじは、、、、
恒星間航行の黎明期の人類の物語.恒星間ラムジェット推進機関を搭載した恒星船によって、近隣の恒星系への無人探査機や有人探査隊が何例か成功した時代.亜高速移動によるウラシマ効果で、乗務員にとっては数年の旅程だが、地球では20年ぐらい経過しているという制約のあるセカイ設定.
男性25名女性25名が乗った恒星船のミッションは、目的地を探査し、居住可能であれば帰還せずにそこへ植民する事だった.
しかし、宇宙塵の直撃で「減速装置」が故障してしまい、目的の星系で停止できなくなってしまった.流浪の宇宙船となるかに思えたが、彼らはどんどん加速して光速に近づき、超銀河団の中間の星間物質の希薄な領域で減速装置の修理に成功する.もちろん、超銀河団を移動するような速度での旅であるから、彼らが旅立った地球は50億年の過去に去ってしまっている.
隣の超銀河団で減速する目論見だったが、あまりにも速度が速すぎて超銀河団をも素通りしてしまい減速できない事が判明する.またしても永久に宇宙を放浪するかに思えたが、そうではなかった.
宇宙の方に変化が現れたのである.宇宙時間で100億年以上が経過した結果、膨張宇宙が収縮宇宙に転じ、やがてビッククランチが襲ってきた.ビッククランチを生き延び、再びビッグバンを起こした新生宇宙へと生き延びた我が人類の恒星船.
新生宇宙で減速に成功し、人類が生存可能な惑星を新天地として生き延びたクルー達は、新生宇宙の最古の知的生命として、希望に満ちた新生活を始めるのであった.

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ウラシマ効果で宇宙の終焉を飛び越えて新生宇宙へ進出する.その着想はひとまず面白いと言っておこう.1971年の段階における宇宙論を取り入れて、その当時のSF愛好家にとっては心地好かったですかな.

評価できるのはそのくらいで、以後は不満ばっかし書きます.

クルーのメンタル弱すぎ
恒星船のクルーの愛憎まみえた恋愛話が延々と続く.宇宙飛行士に抜擢されるほどの人々なのに、メンタルがイカレかかった奴らばっかしで、そんなわけないでしょ?と思ってしまう.死を織り込んだミッションのはずなのに、目的の星系で停止できないと浮き足だってしまって自殺とかしかねい者達のストーリーなんか別に読んでも感銘を受けません.人物設定のレベルが低すぎるということです.

ミームの継承は?
別の星系へ植民する事態を甘く考え過ぎじゃないだろうか? 宇宙植民計画立案者が異星系への植民の目的を定義するならば、人類のジーンを宇宙に広める事だけではなくて、ミーム=文化をも伴って宇宙に広めなければならないと定義するのではないだろうか?  しかし後者がどれだけ難しいかという観点が、宇宙移民ストーリーには不可欠だと思うのだが、本作にはそういう視点が存在しない.
作者は、キリスト教文化の普遍性に何の疑いも持った経験が無く、ミームの継承なんかに問題意識はなく、新天地で世代を重ねた人類が土人に戻ってしまう恐怖を考えたこともない、一直線に歴史が進歩すると盲目的に信じているのかもしれない.

人類をどこまで尊大に扱ったら気が済むのだ?
本作のラストは、人類が新しい宇宙の最初の知的生命となり繁栄するだろうというオチであり、それは新天地アメリカ大陸に到着したメイフラワー号をなぞらえていると推察する.へーっ、人類をそんなに尊大に扱いたいんだ.というか、メイフラワー号の故事を新しい宇宙への植民にまで拡張するのが快感なんだろうね.日本人のわたしには何の快感でもありません.

ミームの継承問題には関知しない.人類は新天地で繁栄するですか.哲学的でもないし、楽天的すぎるし、人類大好きでよろしおすな.深みがない.

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「タウ・ゼロ」を読んで落胆して、小松左京の「果てしなき流れの果てに」は対照的なんだよなぁと思い出しました.わたしが大好きな小説でもある.

「果てしなき流れの果てに」が描いたのは、絶望的なまでに矮小な人類でした.
同作が描いた宇宙はどんな構造だったかというと、無限の並行宇宙には滅ぶ地球もあれば20世紀の我らの地球もある.人智を超えた宇宙意識が存在し、霊的知性を選別し刈り取る場が宇宙の正体だったというのがストーリーの根幹.超能力の素養の無い個体は間引かれ、超能力の資質のある個体は生かされるが、生かされたとて別の星系での刈り取り業務を管理する殺伐とした人生しか与えられない.それに反抗して肉体の死を迎えた主人公の意識は宇宙知性と会うチャンスに恵まれ、宇宙の正体を知るが、霊的な階梯から降格され記憶を失い、20世紀の日本で暮らす老夫婦として幸福な死を迎える.
主人公が命を賭してまで知りえたのは、遠大で冷徹な宇宙の正体と比較した人類の絶望的なまでの矮小さであった.しかしその主人公の死に際には一生命体として大きな幸福が存在したのは疑いようがない...

それに比較すると「タウ・ゼロ」のキリスト教的能天気人類発展の疑いなし物語なんかなぁ、ショボイんだよなぁ.

かしこ


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1 件のコメント:

  1. キリスト教から自由なだけで儒教・道教・中国仏教(まとめて中国教)に思考が縛られてますね。
    「果てしなき流れの果てに」の霊的階梯宇宙ってようはインド宗教の輪廻転生とカースト制と、そのパクリの中国仏教・儒教・道教的な世界観でしょ。
    そこから外れるのが幸福ってのは桃源郷やね。

    >人類をどこまで尊大に扱ったら気が済むのだ?
    あぁ、人類を矮小に扱うのが好きなタイプなんですね、ワカリマス。
    宇宙は永遠にビッグバン・ビッグクランチを繰り返すんだから、無限回の中で1回ぐらい人類が霊長な宇宙があるぐらい、大して凄いことでもなんでもないんだから、いいじゃん別に。これから先の無限回の宇宙を全て人類の宇宙にするってんなら尊大だけどね。

    個人的には超能力を霊的だの進化だのいうのはオカルトでSFじゃない。
    例として別作品をあげるなら、クラークの幼年期の終わりはステープルドンとラブクラフトへのオマージュなコズミックホラーでオカルトでSFじゃないってこと。
    逆に人造人間編で超能力(気・仙術)を解析して機械化、遺伝子工学化に成功したドラゴンボールはSF。

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