2012年1月2日月曜日

わたしの父の文化的問題について

最悪の2011がやっと過ぎました.2012はもすこしまともな年になってほしいです.

今日はまったく年頭にふさわしくない話題をお送りいたします.

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年末年始は実家に帰省してらっしゃる方も多いと思います.

皆さんは父親と仲違いとかしていませんか? あるいは、昔は父に反抗していたけれど今は仲直りして、一緒に酒を飲むようになれたとかですか? わたしは、たまに父親会うたびに、相変わらずこいつは問題のある奴だなぁと思って全然相手にする気がおきません.

その問題点は、父親世代に普遍的な問題点なんじゃないか? 皆さんの周りにもこんな奴がいませんか?

●戦前の家父長制と戦後の民主主義の逆向き文化に晒されて頭がおかしくなっている

父は昭和10年代生まれの大地主の次男坊で、小学生の時に敗戦を迎えました.なので、戦前の家父長が絶対権力者だった時代を幼少期の体験としています.そして、戦後はおなじみの民主主義の時代をずーっと生きてきました.

老人になったいまはだいぶ丸くなりましたが、かつては手がつけられないほど横暴でした.まるで、責務として横暴を演じているかのようなその態度は戦前の家父長制が幼児体験として染みこんでいるからだと推測しています.家庭内で横暴を尽くした結果、相手にされなくなるのは当然の帰結なわけで、息子と酒を酌み交わしたいというような望みが満たされずに寂しい思いを持っているらしいのですが、わたしからすると「オレと酒飲むならもっと人生経験積むなり、公平な物の見方を身につけるなりして、もっと上質な人間に成長してからにしろ」としか言いようがありません.なので、父と酒を酌み交わしたことはありません.

頭がおかしくなっているというのはこういうことです.

横暴さが許容された家父長制というシステムがなくなったことを論理では理解していながらも、男子たる者横暴に振る舞わなければならないという刷り込みによって横暴にしか振る舞えない.家父長制がなくなった時代に横暴に振る舞った結果、疎んじられるのは当然の帰結なわけですが、そうなると寂しくなる自分を止められない.寂しくなる自分を正当化し被害者に置く理念として戦後民主主義のフラットさを援用する.
これはつまり、戦前のシステムのうち自分にとって都合のよい部分をつまみ食いし、戦後のシステムのうち自分にとって都合の良い部分をつまみ食いしている.やってることはそういうことなんですが、そのムシの良さに気づかない.

どうです、こんな奴みなさんの周りにもいませんか?
こんな奴とどうして酒を酌み交わすことなぞできようか? (いやできない)

●司馬史観を信じている=悪いのは東条英機で日本人は無謬だと信じている

ふひぇ~っ.どうやらそういうことのようなんです.8月のお盆の季節に流れる敗戦特集をTVで見ていると、まったくバカなことをやったものだ、などとごちているわけです.すなわち司馬史観.

戦前の陸軍といえばバカの代名詞でしょうけど、あれを露骨に批判できるほど現代人が無謬だとは思えませんけどね.そりゃぁね、戦後の国際社会に再デビューする方便として「東条英機が悪かったのですゴメンナサイ」で手打ちするっていうのは政治家や外交官が駆使するレトリックとしては便利ですけど、緒戦の勝利に酔いしれていた国民の失態をよりにもよって戦争体験世代が簡単にお忘れになられちゃいかんでしょと.-----そういうふうに洗脳されたと文句を言いたいのかもしれませんが、以下で指摘するように現代でまた洗脳されまくっちゃってるんですが------

わたしは司馬史観は日本人にとって利益20%害悪80%な歴史観だと思います.戦後の日本人を精神的に解放する理念として都合良く採用されただけじゃないですか? スケープゴートをでっちあげて都合良く国民をとりまとめるのに役立った免罪符にすぎませんよあんなもん.

どうです、こんな奴みなさんの周りにもいませんか?

●NHKと朝日新聞とニュースステーションを信ずる自分が好きである

実家にはインターネット回線を引いてないので、彼らの情報ソースはNHKと朝日新聞とニュースステーションだけなんです.このブログを読んでいる皆さんは、原発報道における大マスコミの翼賛性について多少は察知していると思いますが、父はなにも知らないと思われます.インターネットがなくても週刊誌なら読もうと思えば読めるはずですが、父が週刊誌を読んでいる姿を見たことはありません.

どうやら父は、大マスコミから外れたニュースソースに批判的で、それらへのアクセスを自らブロックしているようです.それはなぜか?父の趣味から推測すると、保守主義者を演じることを通して自分を保守主義者なポジションに置いて安心したがっているように思われます.

演じて保守主義者になれるわけがないし、だいいち司馬史観を信ずる保守主義者って語義矛盾ですよね? ちゃんちゃらおかしいです.

どうです、こんな奴みなさんの周りにもいませんか?

●マーケティングの産物を執拗にけなす保守主義者を演じる自分が好きである
●歴史の風雪に耐えたものだけを信じる=自律的判断を放棄していることに気づいていない
●ファッションで保守をやっているだけなのにそれに気づいていない

父は、アニメ・マンガ・JPOP・歌番組・バラエティ・映画・ドラマ・現代小説・現代音楽・イエロージャーナリズム・サブカル、読売ジャイアンツ などが片っ端から批判の対象です.

じゃぁ父は何が好きなのかというと、歴史の審判に耐えたモノなら受容するということのようです.それがなんなのかというと、次なんだから噴飯ものです.
    クラシック・盆栽・陶器・笑点・水戸黄門・明治文学

バラエティ番組をけなすその口で、笑点ならOKだとは普通は言えません.どちらも脚本通りのやらせなのは同じです.笑点は老人でも判る笑いに簡単化したバラエティの一種にすぎません.しかし父はそういうポジショニング論が全然できません.水戸黄門なんか「マッカーサー元帥ありがとう」の劣化コピーのコピーなのにね.なんで判らんかなぁ.

クラシックは上等だが現代音楽はくだらないとは普通は言えません.心地よさの追求はクラシック時代に終わってしまって、表現する題材として苦悩しか残らなくなった時代のクラシックが現代音楽なわけです.だから、現代音楽はくだらないと言ってはいけないはずです.

もし父が江戸時代に生まれていたら、歌舞伎なんつう通俗劇なんかくだらないと批判していたことでしょう.中世ヨーロッパに生まれていたら、神様は天動説を唱えてらっしゃるとガリレオを批判していたことでしょう.

文化論を語らせたら、およそ父ほど風上に置けない人物はいないでしょうね.

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プロフェッサーギルの笛の音で発狂したキカイダーの良心回路みたいな父の脳内風景には何が映っているのか?

まず、自律的判断を放棄すべしという強迫観念が根強いようです.これはなぜだかわかりません.敗戦で価値観が崩壊したというほど軍国少年だったわけじゃないようですし.不思議です.

自律判断を放棄したところで、何を判断基準として受容するかというと、歴史の審判ということのようです.父にとっては、旧いモノであればなんでも良いのです.歴史の風雪に耐えたものであると権威づけできれば、自分がどうしてそれが好きなのかを定義することに脳パワーを割く手間が省けます.こういう「手抜きな選好」をしてるから上述のようなバラエティ批判・笑点賞賛になってしまいます.ああみっともない.

結局父が好むものは、父が嫌う「通俗」「ファッション」の亜種だということに気づいていません.すなわち、「現代通俗」や「現代ファッション」を批判する一方で父が追い求めているのは「旧通俗」「オールドファッション」なだけですから.

グダグダになってることに気づかぬファッション保守主義者、それがわたしの父です.ファッション保守主義者って確信を持って騙されているので一番たちが悪い人種です.でも、為政者にとっては、騙しやすいもっとも便利な国民像. -------御用一般人というコトバを最近知りました-------

どうです、こんな奴みなさんの周りにもいませんか?

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