2018年12月11日火曜日

【訃報】ソニーのまーさんが死んだ

なんだか因縁めいてソニーの話題が連続します.

聞きたくなかった、耳を塞ぎたくなるような訃報でした.まーさんが亡くなりました.

12月5日、ガンだったらしいのですが永眠したそうです.ソニーのテープストリーマ関係者には通夜・告別式などの告知は出回ってなかったようです.ちなみにこれを書いているのは12月11日.

わたしとは技術論がツーカーで通じる数少ない人のうちの一人だったし、いろいろと世話になった恩がある人なんだよなぁ.通夜にでも出席してたら下向いてボロボロ泣いてしまったでしょう.

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故人の思い出を語るにあたってよくあるパターンが「出会いは何だったか?」ですのでまずはそれから語ってみましょうか.

1992年ごろ、わたしはソニーマグネスケールの社員でしたが、DDS3を開発する名目でソニー芝浦の503号館(黒いビル)に出向していました.一昨年だったかに亡くなった通称「社長」はここに勤めていた人でした. → 社長の墓参りをしたよ

わたしが芝浦に通い始めて間もない頃、DDS2(SDT-7000)開発チームが試作マザーボードに火入れをしているタイミングでした.試作マザーボードは450x300mmぐらいの巨大な基板だったのでビッグボードなどと呼ばれていました.ところがこのビッグボードが動かなくて「ひらぴー治せない?」と言われて、「ノイズ取り改修」をしてエラーレートが出る状態にして返却しました.その後、改修点をレポートにしてくれと言われたので手書きのクソボロレポートを渡しました.

それから2ヵ月後ぐらいでしたか、坊主アタマの巨体の人が来て言うんです.
「あのレポート見たよ.芝浦にもやっとああいうのがわかる人が現れたと思って嬉しかったなぁ~」
それがまーさんでした.

その時にはさっぱり背景を飲み込めなかったのですが、SDT-7000ビッグボードは厚木TECの事業部にも数台配布されていたので、ヒラサカ改修レポートが厚木にも回覧され、同じ改修をして動くようになったらしい.
たかが0~20MHzぐらいの帯域とはいえ、再生信号をオシロでモニタするためには、プローブリードなんか使ってちゃノイズまみれでダメなんで、プローブリードを使わずにテストピンに当てる方法とかもそのレポートに書きました.
まーさんが嬉しかったのはそういうところだったようでした.

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まーさんから断片的に聞いたハナシを思い出せる限り書きましょう.

わたしと同じく電気少年で、中学生の時に夏休みの自由研究で真空管アンプだか真空管ラジオだかを提出したそうです.年齢はわたしよりもたぶん3歳年上ぐらいですから、真空管っていう世代じゃない気がしましたけど.
ちなみに、まーさんは厚木市出身で厚木高校に通っていたそうです.わたしは伊勢原市でしたから隣市で生活していたわけです.

中学生の頃からパチンコとタバコはやってたそうですが、あの風体なら子供と見られて補導される心配はなかったように思います.

家業が電気工事&ビル管理屋みたいなことをやっていたらしいです.電気主任技術者がビル管理をするようなかんじかと.休日に家業の手伝いで京浜地区の某パソコンメーカーのオフィスに入ると、ホワイトボードに様々なトラブルが書かれていて、いろいろやってるねぇと言ってましたw

わたしとは違ってスナックが好きで、そこらじゅうの店にボトルが入ってました.飲み会して、2次会に行って、若い社員を帰した後に一人でそういう店に行くのが好きなんだと言ってました.
まーさんのカラオケは一度だけ聞いた事があります.「釜山港へ帰れ」を韓国語で歌ってました.韓国人に教えてもらったそうです.

DDS3(STD-9000)の試作は小見川工場/東金工場で行われました.厚木から小見川や東金は遠いのですが、出勤時刻の早い工場の人がラインに現れたとき既にまーさんがトラシュー机で作業しているので驚いたそうですが、まーさんならあり得ます.
小見川へはクラウンマジェスタを使ってました.すごいクルマですね、と聞いたら「親父のクルマ」と言ってました.わたしは心の中で思いました.これで派手なシャツ着てたらとてもじゃないけど堅気には見えませんぜ、とw

後にまーさんは、自らテープストリーマを出て半導体事業部へ異動しました.
その理由をわたしに語ってくれたことがあります.要約するとこういうコトでした.
「自分は今まで、プリント基板を設計したり、製造ラインを見たりしてきたけど、なにか限界があるように感ずる.より上流にあるIC/LSIを設計すれば打破できるのではないかと思う」
さらに後日、まーさんは半導体事業でも限界を感ずるようなことを言ってました.
「軽々と企画を通せないからなかなか作りたいICを作れない」
まぁソニーじゃそんなものかもですね.ロームみたいな小回りの効く会社ならよかったかもですが.
ちなみにまーさんがソニーを辞めたのはわたしよりも早かったのか遅かったのかよく覚えていませんが、ソニー退職後は小回りの効く小中規模企業で働いていました.決断が早くて面白いと言ってました.

半導体事業部に異動しちゃって済まなかったと言われたことが何度かありました.テープストリーマ(のアナログ系)をヒラサカに押し付けて半導体に異動しちゃってゴメンねという意味ですが、わたしはそういう事にはドライなので別に何とも思っていません.

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上の方でソニーマグネスケールから出向して芝浦の503号館に通勤してたと書きました.芝浦生活は楽しかったけど1996年にソニーマグネスケールと縁を切るために退職し、芝浦TECや厚木TECの面子とも縁切りしました.  → こちらに書いた
退職日に諸手続きのため、ソニーマグネスケールに一日だけ顔を出した後、本厚木でまーさんと飲みました.1996年の退職時に最後に会ったのはまーさんでした.別れ際、まーさんは悲しそうな表情をしてた気がしました.

1996年の退職後のわたしは神戸のHPに勤務していましたが、いまいち退屈で、伊勢原の実家に帰った折にまーさんと飲み、「退屈なんだよね」と愚痴りました.後で知ったのですが、ソニーのテープストリーマへ戻ることになったのはそれがきっかけでした.「ひらが神戸で退屈してるからウチで採れない?」とまーさんが動いてたらしい. → こちらに書いた
今のわたしは技術者としてはすっかり成仏し、中目黒と秋葉原と日本全国でプラプラ遊んでいます.そのように解脱できたのは、ソニーでやった破天荒な技術開発と、ソニーで得た蓄財のおかげです.それが無ければ今でも何処かで技術芸人をやっていたに違いありません.まーさんのおかげでわたしの人生は大きく転回したのでした.

当ブログの定期愛読者の方は、今から10ヶ月ほど前に「就職するかも」と書いたのをご記憶かもしれません.諸般の事情により就職は実現していませんけれど、その時にもまーさんが関係していました.
いくつかのオファーを戴いた中で、まーさんの勤務先に履歴書出しましょうということになりました.ですが諸般によりわたしがグズグズしていて、5月頃でしたか、「どうしてるー?」というメールがあり.「諸般で就職は難しいなぁ」と返答.
それがまーさんとの最期の会話でした.

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社長と同じく、まーさんも何も言わずに逝ってしまいました.

まぁあれですかな、まーさんが死にそう、という噂が広まると様々な人が押しかけてきて、まーさん自身がいろいろと困ってしまうとかいう事情を考慮したのかなと少し思ったりします.天国で「ひら、その通りだよ」と言ってる気がします.ふふっ

まーさんとの様々な会話を思い起こすに、わたしはいつも会話が弾まない相手だったと思います.なぜならまーさんの言う事は深いんです.だからいつも「うん、そうですね」としか返せなかった.もっといろいろな事を話せばよかった.え~ん

ご冥福を、まーさん

3 件のコメント:

  1. すごい人っているんですね。
    大好きな人ほどなんか肩に力が入っちゃってうまく付き合えないことってありますね。
    ご冥福をお祈りします。

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    1. 血の臭いのするエンジニアでした.

      ところで、ジントニにて本年の反省会をしませんか?
      facebookアカウント削除しちゃったので連絡取れませんなぁw

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  2. 是非ぜひ~!
    ( ^o^)ノ キャー

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